かなり歴史に詳しい方でも、知る人は少ないであろうと思います。

しかし、この人の高潔さと民を大切にする姿勢は事績だけでもはっきりしています。

この人は江戸時代後期の幕臣として活躍しましたが、出生はあまりはっきりしません。
越後の農民の子とも言われています。

この人が世に出たのは、田沼意次の時代。
田沼意次は賄賂政治で有名ですが、実際行ったことは
干拓、鉱山開発、貿易拡大、実力主義の人物採用等、非常に有効なものでした。
しかし、浅間山大噴火、利根川大洪水等の天災が原因で失脚してしてしまいます。

この実力主義の中で幕臣に登用され、蝦夷地調査団のリーダーの一人として抜擢されます。

蝦夷地調査の時期は、まさに天明の飢饉のさなか。
ロシア南下対策と共に飢民の移住開拓も視野に入れていたことでしょう。

この時、後の盟友とも言うべき最上徳内を人足の中から見出します。
元々、低い身分から抜擢された鉄五郎は、身分差別をしなかったのでしょう。
最上徳内の実力を知るや、調査団の中核を為す人物として活躍の場を与えます。

アイヌとも友好関係を保ち、ロシア人との交流も行い、
開拓と開国まで視野に入れ、調査団は江戸に戻ります。

・・・が、戻ってみると、将軍の死去と共に田沼意次が失脚。
田沼憎しの松平定信は田沼の息のかかった政策や人物の排除に動きます。
蝦夷地調査団の面々は重要な役職から外されるどころか
死罪になったものも居ました。

しかし、世界は動いています。
次々日本に開国を求める外国船がやってきます。
第一回の桂川甫周が漂流民を受け入れて自分の名がヨーロッパで知られていることを
記録したのもこの頃。

田沼憎しで海外事情に蓋をしてきた失策を忌避された松平定信が
失脚するとともに、鉄五郎は表舞台に戻ります。

下野那須の代官となり、荒れ果てた土地の開発に着手します。
今でこそ観光地になっていますが、那須は火山灰台地で水無川があるような
農業に向かない土地でした。
そこに寛政の改革の帰農令で、天明の飢饉で食えずに江戸に出ていた
農民が帰郷し、さらに人が増え、食料が絶対的に不足している状態。
いまだ天明の飢饉の後遺症に悩んでいました。

鉄五郎は間引の禁止、年貢減免等の人道政策を次々打ち出します。
多忙を極める中、鉄五郎は武蔵の国見沼の検地に参加します。
見沼は徳川吉宗の時代、代用水を引いて開拓をしてきた土地でした。

これを見た鉄五郎は決意します。
那須にも代用水を引こう、と。

それからは、農民を説得し、ちょうどその頃関東の河川の調査役となっていた
最上徳内の知見を活用し、15年かけて全長20kmの疎水を完成します。

並行して、荒れ果てた関東農村の治安回復のため
近隣の代官とともに、江戸時代のFBI、関八州見廻りを創設します。
鉄五郎がいなければ、時代劇のヒーローも減りましたし
国定忠治も捕まえられなかったのですね。

このように、生涯を通じ、民の為に活動した名代官でした。
自身の印には「無軽民事」(民の事、軽んずること無し)を使っていたそうです。

救民という意味で、二宮尊徳にも遜色の無い活動をしてきた山口鉄五郎。
もっと知られて良い偉人です。

余談ですが、この人の息子と勝海舟の父親は仲が良く、
勝海舟は幼いころ、家族で山口邸に間借りしていました。
勝海舟の身分に拘らない性格に
山口家の家風が多少なりとも影響を与えていたのかも知れません。