この方もあまり知られていませんが、
とても人間的な魅力的を感じる皇帝です。

無頼の徒でしたが、不思議と人望があり
自然と周囲に人が集まっていました。

ここらへん、漢の高祖劉邦や蜀の劉備に似ています。

南北朝時代の南朝、宋の建国者で中国最強との評もある皇帝です。

ちなみに、ここで言う「最強」とは、文字通りの意味です。
戦に強かっただけでなく、個人の武力も最強。

まず、戦では生涯無敗。
こういう方は歴史の中で、たま~に出て来ますけど、
この人の恐ろしいのは、個人の武力。

ある時、10数人の部隊を率いて、敵の偵察に出ます。
すると、数千人規模の敵部隊を発見。
しかも、敵にも発見されてしまいます。
取り囲まれる劉裕部隊。

絶体絶命となった劉裕は如何にしてこの危機を乗り越えたのか。

唯一逃れた兵から報告を聞いた将軍が、急遽大部隊を率いて
駆けつけて見たものは。

大量敵兵の死体と、たった一人佇む劉裕の姿。

そう、10数名で数千人の部隊を全滅させてしまったという。。。
。。。。いや、史書にそう書いてあるんですよ。。。

こんな伝説作っちゃったら、敵は劉裕の名前を聞くだけで
怯えちゃいますね。

戦の度に軍功を挙げ、どんどん出世します。

その後も北朝軍3万を十分の一以下の兵で破ったり、
やがて宰相になっていきます。

こうなると人望も軍事力もある武将に
皇帝になって欲しいと考える者が増え、
劉裕は皇帝に推戴されることになります。

この時、国名を決めるのにひとつのエピソードがありました。

周囲の者は劉姓で、漢の建国者のイメージも重なる劉裕に
「漢」の名を勧めます。

漢復興を掲げた劉備が蜀漢を建てたのは、この時代から百数十年前。
この時代の中国で「漢」の名は絶大な求心力がありました。
(劉備が漢の血筋だというのは多分に怪しいと言われています)

しかし、劉裕はこう言い放ちます。
「俺は貧乏人の子で、漢のおエラい血筋なんか引いてるわけがない。
 それに国名なんて関係ないだろう」(意訳)

てなことで国名は「宋」になりました。
劉姓の王朝で、国名が「漢」でないのは、劉裕の宋だけです。

皇帝になっても劉裕は貧民の味方です。
小作人を虐げていた大土地所有者制度を解体し、
貧民に土地を分け与えました。

さて、皇帝になると皇后も立てなければなりません。
しかし、劉裕は最後まで皇后を立てませんでした。

それは、苦労を共にし、皇帝となる前に亡くなった
臧愛親をずっと愛していたからです。

皇帝になった後、臧愛親に皇后位を追贈し
どんなに皇后推戴を臣下から要求されても
決して受け付けませんでした。

皇帝になっても貧民時代のことを忘れなかった
庶民派皇帝劉裕。

民衆は歓喜し、民の支持は最高でした。

しかし、帝位についてわずか2年後に崩御。
中国はさらなる混沌の中に嵌っていくことになります。