元々大学では歴史を学んでおりました。
しかし、高校までの授業だと時間の都合もあり、大まかな流れしかやりません。
暗記科目でつまらないと感じる人も多くおられます。

でも、本当は歴史は人の行為の積み重ねです。人が主役です。
様々な人の想いが歴史を作り、その歴史を知ることが未来の歴史を過たずに紡ぐことに繋がります。

ここでは、全く個人的な趣味の世界で
一般にはあまりメジャーでない歴史上の面白い人物を紹介して行きたいと思います。
年末のドラマ「風雲児たち 蘭学革命」の脇役で出てきた桂川甫周のお話です。

桂川甫周は当時としては超お坊ちゃんに生まれました。
将軍奥医師の蘭方医。
今でいえば天皇や総理大臣を執刀する外科医の家系。
蘭方医(外科医師)の頂点です。

そして将来を嘱望された、とても優秀な人物でした。

ところが、この人、お坊ちゃんですが優秀過ぎて偏屈でした。
無能な人間を許せません。

高い身分なのに、人間の評価の基準は知性のみ。

当時の開明的な学者は、蘭方医を目指します。
蘭方医であれば、長崎で南蛮人に会う理由ができ
世界のことを聞くことができるからです。

桂川甫周も、蘭学者の集まりに参加し、
当時の出島にいた医師であり、リンネの直弟子である博物学者、
ツンベルクの教えを受けます。

ここでも桂川甫周は、小浜藩の医師、中川淳庵と並んで
双璧扱いされます。
優秀な人が好きな甫周は、中川淳庵ら、
真剣に蘭学に取り組む蘭方医たちと交流を結んで行きます。
中には農民出身の者もいましたが、
そんなことは全く関係ない自由な交流を謳歌しました。

てことで、偏屈で超お坊ちゃんなのに
友達は、ほぼ自分より身分が下の者となってしまいました。

江戸に戻ると、中川淳庵から誘いが入ります。
藩医の先輩、杉田玄白が「ターヘルアナトミア」を訳すから
参加しないか、と。

そして、「解体新書」が完成。
しかし、よく考えてみれば、「外道」とされる蘭方医学。
このまま出して話題になってしまうと
発禁になる可能性すらある時代。

そこで、甫周は父、甫三に頼んで将軍に献上します。
将軍が読んだことにしてしまえば、
発禁にはできないからです。

これが功を奏し、漢方医や反蘭学の重臣たちも
手を出せなくなり、解体新書は世に出ました。

が、これが原因で甫周は江戸城内で孤立することになります。

蘭学に理解のあった田沼意次の時代は
それでも良かったのですが、田沼の失脚後、
日本ファーストを徹底し、蝦夷地改革を放棄、
朱子学以外を禁じる「寛政異学の禁」を出した
松平定信の時代、窓際に追いやられます。

前半生の事績に対し、肩身の狭い思いで過ごしていたある日、
甫周は幕府から呼び出されます。

漂流民をロシア国使が連れてきたので
尋問をするのであるが、理解に間違いがあるといけないので
海外事情のわかる甫周に書記をせよ、と。
ただし、発言は認められません。

甫周は尋問の場の片隅で、将軍や松平定信等が居並ぶ中、
高官と漂流民代表である大黒屋光太夫の発言の記録を取ります。

海外事情を知ろうともしてこなかった、
松平定信時代の高官の質問は
くだらないものがほとんどでした。

しかし、そのうち、一人がこんな質問をします。

「ロシアでも知られている日本人はいるのか」と。

光太夫は答えます。
「ヨーロッパで出版されている書物にも名前のある
大学者の話は聞きました。
中川淳庵様と桂川甫周様、私は知りませんでしたが、
この両名は日本を代表する大学者だそうですね。」

幕府関係者の空気が凍りつきました。
自分達が、白眼視して大した仕事もさせてこなかった
たった今、書記をやらせている男が
ヨーロッパでも有名になっているのだ、と。

実は長崎で師事した大学者、ツンベルクが故郷スウェーデンに帰り
日本の本を書いていたのです。
その中で、自分が教えた中で優秀だったのは
中川淳庵と桂川甫周と書いていたのでした。

そして、書記の甫周は黙って自分の仕事をこなします。
光太夫の発言をしっかりと公式記録に残しました。
「日本を代表する学者は、中川淳庵と桂川甫周」
と。

さらにロシア国使ラクスマンは
桂川甫周宛にツンベルクからの手紙も携えてきていたのでした。

当然、これも幕府が閲覧します。

これを境に、桂川甫周の名誉は復活します。
海外でも知られた学者を疎かにするわけには行きません。
光太夫とも親しく交わり、「北槎聞略」という
海外事情の書物を表したりして、弟子も育成、
日本の蘭学・医学の発展に大きく寄与していくことになりました。